ガレス・マシューズ「子供は小さな哲学者」 鈴木晶訳

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哲学するのはごく自然な行為なのだという考えに、多くの学生は抵抗を感じるらしかった。学生の抵抗感にたいして、わたしはある作戦を思いついた。かれらだってこどものころすでに哲学していたのだということを、学生たちに示したらいいのではないか、と考えたのだ。かつてはごく自然なこととして楽しんでいたのに、社会化されるにしたがってやめた活動へと、学生たちにをふたたび導くことが、大学の哲学教師としてのわたしの責務ではないかーーーこんな考えが頭に浮かんだのである。

はじめに p5

1疑問

わたしは八つになる息子ジョンを寝かしつけている。ジョンはわたしを見上げ、出し抜けにこう尋ねる、「パパ、パパが二重に見えないのはどうして?だってぼくには目が二つあるし、片目ずつあけてもパパが見えるよ」

わたしはなんと答えるか?

まずわたしは、ジョンが疑問に思っていることを、正確に理解しようと努める。

「お前には耳が二つあるね」とわたしは指摘する。「でも二重に聞こえるわけじゃないだろ?それは不思議じゃないのかい?」

ジョンはにやりと笑う。「二重に聞こえるってどういうこと?」

「そそうだだなな、ここんななふふうにききここえるるここととさ」とわたしは答える。

ジョンは考え込む。

p21

4ピアジェ

わたしにとって、このやりとりいちばん印象的なところは、ピアジェが迷いに対してまったく鈍感らしいということである。だれだって、おとなだろうとこどもだろうと、ファヴと似た内容の夢を見た人に「あなたが夢の中にいたのか。それとも夢があなたのなかにあったのか」」と質問して、「その両方だ。わたしは夢の中にいたし、夢はわたしの中にあった」という答えが返ってきたら、なんとなく不自然な気がするのではなかろうか。ファヴは迷っている。ピアジェは迷っていない。

p98

しかし、ピアジェが子どもに見出したと称する概念はすべて、哲学的考察をそそる。

p99

5物語

ピアジェは幼児の哲学的思考に敏感でないというわたしの主張には、たしかに皮肉が含まれている。その証拠に、ピアジェの初期の小論文「子どもの哲学」の最初のパラグラフを以下に掲げよう。(論文タイトルの欧文)ーーー「いうまでもなく現実には子どもは、本来の意味での哲学に取り組むわけではない。というのは子どもはけっして自分の考察をなにか体系のようなものに編み込もうとはしない。原始社会の神秘的な概念作用のことを言っているような「野生哲学」という表現を用いたタイラーが間違っているとしても、一方、比喩的に用いる以外に、子どもの哲学という言い方もできない。」

「とはいえ、自然や心や物の起源などの様々な現象に対する子どもの自発的な意見が、いかに関連がなく、一貫性がないとしても、その中に、あらたに考えるごとにふたたびあらわれる一貫した傾向を見てとることができる。我々が『子どもの哲学』と呼ぶのは、この傾向のことである」。皮肉にもかかわらず、わたしは自分の主張に固執する。

注1 p188

6ファンタジー

いわゆる西洋哲学は、紀元前6世紀に小アジアの海岸地方、今のトルコ地方で生まれた。ベッテルハイムのような発生反復論者にたいしては、こんな質問をしてもいいはずだーーー「こどもはその発達のどの段階で、哲学の発生を反復すると考えられるのか」。もし、「子どもは思春期にはじめて抽象的な思考ができるようになる。そのときだ」という答えが返ってきたら、わたしはこう言い返さなくてはならないーーーわたしの知る限り、五歳児や六歳児は(あるいはひょっとしたら七歳児も)、十二や十四の子どもよりも、はるかに哲学的な質問をするし、哲学的な説明をするものである。この現象は単純には説明できない。

この現象は、一面では、哲学の本質と関係がある。多くの、いやおそらくほとんどの哲学的な問題には、どこか無邪気で素朴なところがある。大学生を含め、おとなは、初めて哲学の本に接するときには、それを養わなくてはならない。それは、子どもにとっては、ごく自然なものである。

また、この現象は、別の一面では、我々の社会において、子どもをおとなにする社会化の過程と関係がある。おとなたちは子どもが哲学的な質問をしないように仕向ける。はじめは恩着せ顏で聞いてやり、今度は子どもの探究心をより「有益な」探索へと向ける。ほとんどのおとなは、彼ら自身、哲学的な問題に興味がないのである。一部の哲学的な問題を、こわがったりもするのである。そのうえ、子どもが、おとなが決定的な答を与えることができず、辞書にも百科事典にも答えが出ていないような質問をすることだってあるのだということを、ほとんどのおとなは考えたこともないのである。

注1 p188

7不安

(この節はとても示唆的だから、是非とも通して読むことをお勧めする。)

哲学的な問題について子どもと話し合うということは、簡単に言えば、ある種の疑問あるいは概念の問題についてよく考え、その疑問を取り去り、問題を解決することができるかどうかを見きわめることである。うまくいくこともあれば、失敗することもしばしばである。時には、あることがより明確になったために、なにか別のことがひどく曖昧であることに気づく場合もある。

p145

哲学を論ずるのに必要なのは、根本的には、言語とそれが表現する概念を使いこなす能力が人並みにそなわっている人ならば誰でも持っている、理解力である。それにあえて付け加えるならば、どんなに単純に見える問題も、どんなに基礎的に見える問題も、考えようという意欲と、忍耐力である。

p148

ここで一つ注意しておきたいことがある。私は、これまで論じてきた説明や質問が情緒的に健康で安定している子供から提出さたものと仮定してきた。この仮定はかならずしも正しいとは限らない。いつもは安定と自信にみちている子だって不安になるときがあるかもしれないし、哲学的な説明や質問の中にその不安を表現しているかもしれない。

p148

8素朴さ

たいていの人は自分に、あるいは他人に、空がいくつあるかなどと質問したりはしない。誰もが幼い頃に、この質問が、「大洋はいくつあるのだろうか」という質問とは違って、妙竹林な質問であることを知るのである。

キャサリンみたいな子どもは、これが突飛な質問であることをまだ知らない。おとはなおどけなさを意識的に養うことによって哲学と出会うしかないが、子どもたちはむしろ、無邪気さから哲学と出会う。子どもたちは、哲学者たちが質問のクズ箱から救い出した多くの質問を、いかがわしいとか卑しいとか決めつけて捨ててしまうことを、まだ学んでいないのである。

p158

9対話

この章は是非ともすべて読むように勧めたい。なので、どこも引用しないでおく。しかし、この章を読めば、マシューズが何を哲学対話の理想としているか、がはっきりと分かる。それは、古代や中世を経て現代にまで常に理想とされる哲学対話であり、そこに出てくるアウグスティヌスの「教師論」のような対話である。そこではヴィトゲンシュタインが哲学探究の冒頭で引き合いで出したことで有名なアウグスティヌスの話が取り上げられ(注1)、マシューズは息子のジョンとそれについて対話し、その対話篇のパロディーを作ったり、初めから対話篇を創作したりする対話の様子が報告されている。哲学的問いが持続的連続的に起こる事例としてだけ挙げられているようにも思われるのだが、そんなに単純に考えるにしては、親と子の対話の記録であるということがあまりに印象的すぎる。だから、マシューズが言いたいことはおそらくもっともっとたくさんあるように思われるて仕方がない。

注1:ヴィトゲンシュタインが引き合いに出したのはアウグスティヌスの「告白」のある一節だったように思われる。しかし、言葉の意味に関することという点に関してはこの対話篇も同じものをあつかっている。ところでその対話篇は、アウグスティヌスとその息子のアデオダトゥスとの対話である。つまり、マシューズは自分の息子に、父と息子の対話を読んで聞かせてやっている。対話篇が言葉の意味に関することであるというのをもう少しいうと、自分自身に何かを知らせるための言葉が、他人に何かを知らせるための言葉よりも先にある、という話である。この言葉の意味に関するアウグスティヌスの見解は、プラトン・ネオプラトニズムにまで遡って、想起説とともに理解されねばならないことは言うまでもない。そしてこの点こそ、マシューズに特有の、子供の哲学に対する見解であるように思われる。それは、冒頭で彼が述べていることから明らかであろうと思う。

マシューズという人の経歴を踏まえるともっと納得いくことがあるかもしれない。(私はあまりそういうことは好きではないのだが、まあ。)

https://en.wikipedia.org/wiki/Gareth_Matthews